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ムラカミロキ -MurakamiLoki- nzchao.Exp Official Blog

周囲の臭意

気が付けば早いものでもう10月
すっかり季節は秋である。
心なしか夜道を歩いていると
秋の匂いがほのかに薫る。
この季節の薫りという奴は一体何処から流れてくるのか
まあ天候だの旬の植物だの様々な要因はあるのだろうが
具体的な姿が見えない分、何だか不思議である。
が、確かに季節の薫りは存在する。気がする。


自分は季節の変わり目にこの薫りを嗅ぐ度に
何時の事か遠い過去の思い出を想起させられる
気がしてならない。中学だったか高校だったか
はたまたそれ以前だったかは分からないし
具体的な思い出が浮かんでくる訳でも無いのだが
何か、脳の奥を擽られるような
懐かしい感情がふつふつと浮き上がる。


そんな事をぼんやりと考えていてふと思ったのだが
この嗅覚という奴は人のいわゆる五感
(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)
の中で随分マイナーというか
意識され難い位置にいるような気がする。
一般的な芸術や表現と呼ばれる分野にしても

視覚:絵画、映像等

聴覚:音楽、音響等

触覚:インスタレーション系統、工芸分野等

味覚:料理一般

等としてもやはり嗅覚を表現の重点とした分野は
あまり耳にしないのが実際である。
(触覚も結構あいまいではあるが、それでも
 嗅覚よりその分野、触覚芸術というのは
 普及しているように思う)
意思伝達という面から見ても
視覚・聴覚は言語として、触覚にしても
点字という物があるが、嗅覚による
意思伝達の手段とはあまり聞いた事が無い。
(最も、この場合は味覚も当てはまる)


もちろん、上述した物は全てが独立した
一つの感覚に依存している訳ではないのは
当然であり、事に料理等は味覚と並んで
嗅覚は重要なファクターとなる。
が、やはり嗅覚を中心に持ってくるとなると
少々心細い所である。


別に世界は広いので嗅覚による表現が
存在しないわけでは決して無い。
現に嗅覚芸術という物は分野として存在するし
日本には古来から茶道・華道と並んで香道
(茶道が茶を楽しむように香を焚き
 その香りを楽しんだり当てたりする
 ちなみにこの時「嗅ぐ」とは言わず「聞く」と言う)
と呼ばれるものもあるのである。
だが、つまりはどちらにしてもマイナー、
一般認知度が他と比べて明らかに低いのである。
おそらく一般的に知られているのは
せいぜいお香、香水の類ぐらいのものだろう。
(別にこれらを卑下している訳では
 まったく無いのであしからず)


こう言った事の要因は様々にあるであろうが
その一つとしては、嗅覚とは人の感覚の中で
最も原始的な感覚である、という一面を
備えているからではないだろうか。
逆に言えば、嗅覚とは人の感覚の中で
最も発達しにくかった、という事である。
特に現代では、体臭は忌み嫌われ、
食品の安全性の向上からその腐乱、不可食等
を匂いによって判断する必要性も薄まってきている。
これでは、嗅覚の必要性は下がっていく一方である
と思われる。これでは発達も糞もない。
また、日常生活において匂いを意識する部分が
食・排泄・性といった、人の本能的な部分に多い
という事も、それらを物語っているように感じる。
どちらが先か、と言う事でもないが
感覚として発達し難い分野の文化が
同様に発達し難いのは至極当然の事ではないだろうか。


自分はここで、嗅覚が原始的で他の感覚より劣っている。
という事を言及したいのではない。
もちろんある部分ではそうかもしれないが
寧ろ逆に、嗅覚はその性質ゆえ、より直接的に
人の感情や身体、脳の根底に訴えかける事に
秀でているのではないだろうか。
不快な臭いから、数分と待たず気分が悪くなり
実際に嘔吐感まで感じるような事例に立ち会った
事のある人は少なくないだろう。
なにより、自分が秋の薫りによって感じた
脳の奥底を擽られるような
あのなんとも言えない懐かしい感じは
おそらく嗅覚であるからこそ生じたものなのだろう。


そう考えると、嗅覚的な表現分野が
あまり普及していないのは
酷く残念な事であるような気がしないでもない。