むらふぁけ -murafake- (移行調整中)

ムラカミロキ -MurakamiLoki- nzchao.Exp Official Blog

いい家?いいえ。

なんだかんだで最近お引越しをした。
と言っても結構前なんですが
今だに新居にネット環境がないので
更新が滞っていたのもそのせいであったりなかったり
何かあればわざわざGo to 漫画喫茶な日々。


それにしてもやはり住み慣れた街を離れる
というのは何処か感慨深いものがあるもので
特別関心だのこだわりだのがあった土地でも
なかったのだが、如何せん幼少時から永い事
住み続けていた所だけに、一歩外に出て改めて見回せば
当時の記憶から知らぬ間に起こっていた
景色の微妙な変化まで色々と面白い発見があった。
風景という映像と人間の記憶とはやはり
密接にリンクするものなのだと再確認である。
街事態は変わってもやはり何処かに過去の断片やら
街そのものの独特の雰囲気だのという物は
簡単に消える物でもない。
またその微妙な要素を敏感に感じ取る人間の
感覚というものはまったくよくできているもんである。


まあ自転車で二十分ぐらいしか離れてないんだけども。


で、まあまたこの新居というのが中々のボロ屋でありまして
まあボロ屋といっても知人の覇闇燈人さん(上記リンク参照)
なんかに言わせれば
「この程度でボロ屋ですか、フッ」
と一蹴されてしまいそうな程度ではありますが。
窓がサッシじゃない上古いので隙間風がすごいわ
よくわからん虫君達はよくご挨拶におとずれるわ
壁が薄くて音はもれるわ冬は馬鹿寒いくせ夏は糞暑そうだで
そんなこんなな家であるわけです。
初めて足を踏み入れた時には
「なんか・・・江戸東京建物園の臭いがする」
と素直に思いました。
(ちなみに近所なんでちらほら行きます)


まあそんなに細かい事を気にする方ではないんで
まあ良いんですが。如何せん隙間風にかんしては
ただ吹くだけならいざしらず
当初機材一式を運びこんで一日家を空けて帰ってきたら
土ぼこりがたっぷりかかっていたりするんでたちが悪い。
流石にそれで手作業で改装は少しだけしました。
(窓をガムテープで目張りしたり壁の染みをペンキで塗ったり
 ついでに靴も白く塗ったり)


もう一つの虫にかんしてはまあ人間慣れというかなんというか
があるわけで、なんというか
「最早一々相手にするのがおっくう」になりつつあります。
流石にゴキちゃんはちょっと迷惑なんでアレですが
クモ君やバッタ君や蛾ちゃんやアリちゃんの一匹や
二匹だと、もう一々驚いたり殺したりもなんなんで
「おう、今日も元気にやっとるかい」
ぐらいの声かけで済ましてます。後はまあこれまた
時たま挨拶にくるヤモリ君に任せるという形で。
昔うちの祖父の家に遊びに行ったとき


「わー爺ちゃんち蚊が多いよー」
 パチン!
「馬鹿野郎殺すな!
 それは飼ってるんだ!」


とよく言われた記憶がありますが
まあなんかその気持ちが少しわからなくもないです。
そりゃシロアリが大発生したとかならまた考えますが。


なにより自分古い建物の雰囲気ってが結構好きなので
ある程度の不便さうんぬんは「味」として良しである。
しかし一口に古い建物といっても
それこそ古代文明の遺跡やら文化遺産的な建物となると
一見ただのボロい建物に見えても
そこには現代文明からは想像すらつかない
綿密な設計やら重大な意味だのが隠されていたり
するもんである。
が、この辺の単なる現代の微妙なボロ屋ともなると、
もはや何だかよく解らない
「押入れの横にある60cm四方ぐらいの微妙な正方形スペース」
何かがあったりして、逆に「何で?」と
無駄な考古学的探究心を擽られたりする。
正直「マネキン立てるのか?」
ぐらいしか自分には思いつかないんですが
だれか正しい、というか有効な使い方を知ってる人は
是非ともご教授下さい。


まあしかし、この程度の日本の古い建物
なんかの最大の味というのはこれらの
「隙間」と「無駄」とも思える所がある。
あらゆる物事は一見無駄とも思えるような
部分や余白というのが実は重大な部分をしめていたり
する訳である。空白があるから他が映えるというのは
無意識でも多くの人は実践しているし
一見無駄な馬鹿話の間から良いアイディアが生まれるのも
よくあることである。
なにより「無駄のない人生」程つまらなそうな事もなさそうである。
綿密に計画された物事というのは大概において必要であるし
その方が良い物ではあるのだが
人は時としてそこに息苦しさを感じたりするのである。
とある建物と建物の間に生まれる微妙な空間に野良猫が
よく身をおくように
ある計画性と計画性の間に生まれる一種の「無計画的」
な要素に人間はある種の落ち着きや面白さ
を見出したりする。
集団制作の面白さの肝と言うのもおそらくそこにあり
都市計画がよく綺麗なだけで面白味がないのも
そこの穴にはまっているのである。
なぜなら街、ことに日本の現代の街の味というのは
そこから生まれた部分が大きいはずだからである。


また、家のあらゆる所に隙間があるというのは
逆に言えば外界とのつながる部分が残っており
家の中と外を明確な境界が薄くなっているということである。
これは外から風だの生き物だのが断続的に流れ込み
極端に言えば自分(人間)はやはり虫と同じように
外という自然の中で生きているという実感を与えてくれる。
幾ら授業で「光合成だの大気汚染がどうのこうの・・・」
と説明し、課外授業で森を探索しても
家(都市)に帰ってきてそういう要素から切り離されてしまい
実生活にそういった自然の要素が皆無であれば
アレ(自然)はアレ、コレ(実生活)はコレと切り離して
考えがちになってしまい、感覚的に繋がらなく
なってしまう。大事なのは繋がりを実感することである。
元来エコロジーだの自然保護だのに声を大にする
(これはこれで重要だが)以前に、そういう基礎とも
呼べる意識を築かないとならないのかもしれないと。
なにより元々日本の建物には中と外の境界が曖昧な部分
(代表的なのは縁側である)があり
これは人間関係や近所付き合いにも似たような事が言えるだろう。
別にありがちな現代批判や懐古主義を謳う気はないが
もう少しそういう意識に目をやっても良いのではないかと。




そうでないと「我が家のメリット」
てのが何もないただのボロ屋になってしまうんで。
いやきっとそうだよ、多分、そうじゃあないかなあ。
そうだといいんだけどなあ。