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フォークリスト

えー、一部の方々に大変な迷惑と御心配をお掛けした昨今ですが
問題は未だ解決していません。
一体私はどうなるのでしょうか、誰か教えて下さい。


今月は前半はその関係で身も心もボロボロになり
後半はその反動でひたすらグダグダしとりました。
まあ、つまりはいつもどうり引き篭もっていたという事です。


で、そんなビール缶とシケモクに取り囲まれた生活の中
今までほったらかしにしておいたあるビデオを見ようと
決心したわけです。
そのビデオとは


日本フォーク年鑑(全三巻)


実はコレ、ちょっと前に秋葉原の某メディアショップのワゴンセールで
掘り出した、というか拾い上げた物なんですが
既成のパッケージ商品ではなく、どっかの誰かさんが
昔BSで放送されていたものを個人的に録画(三倍で)した物で
差し詰め見た目は裏ビデオな代物なのです。
どういう経緯でワゴンセールに流れ着いたのかは解りませんが
おそらく店的には内容というより単に上書き用のメディアとして
売っていたんではないかと。
で、見つけた時には相当テンションが上がったんですが(ちなみに一本50円でした)
これがどうやら二時間テープを三倍でイッパイイッパイに録っているので
一本六時間、三本合わせてざっと十八時間はあるわけです。


んで、ちょっと見るのに気合と言うかなんと言うかが入りまして
今まで放置しておりました。
ですが、まあ丁度暇だし見てみようかと
そんで見てみると、まあ覚悟はしてたんですが
音声にノイズが乗るわ乗るわ、画像が劣化してるわしてるわ。
それでもなんとか全部見終わりました。
中身としてはまあ見応えある映像からなんだかどうしようもない映像まで
第二回中津川フォークジャンボリーの記録映画「だからここに来た」だとか
泉谷しげるフォーライフ発足当時に撮った初監督短編映画
なんかが載ってたのは中々良かった。


友人のNG-VanVan君が開催する
と言って(言い張って)いる
小金井フォークジャンボリー(詳細未定)
の出演に備えるためにも参考になった。


結局日本のフォーク全盛期ってのは70年代前半であって
60年代前半あたりまでは日本で「フォーク(ソング)」ってのは
存在はしたかもしれないが名称はほぼ生まれていなかったんだろう
(当時似たような物はカントリー&ウエスタンで統一されていた)
日本でフォークが生まれた年、というのもおかしいが
それに近いのはおそらくマイク真木の「バラが咲いた」が発売され
高石友也がデビューし、ジャックスと五つの赤い風船が結成され
フジテレビで「フォークソング合戦」ニッポン放送で「バイタリス・フォーク・ビレッジ」
が放送された1966年かそこらであろうかと思う。
高石友也が「フォークの父」と呼ばれている当たりからも、
 あながちこの考え方は間違いでもないかと思う)
そして翌年の「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダース)のヒット
高石友也事務所(後の音楽舎)の設立、
その翌年の「受験生ブルース」(作詞:中川五郎 作曲:高石友也
のヒット、「イムジン河」(ザ・フォーク・クルセダース)発禁事件、岡林信康のデビュー
なんかを受け、日本のフォークは成熟し、浸透していく。
(森山良子ってこの辺だったか、もうちょい前だったか)
そして1969年には第一回全日本(中津川)フォークジャンボリーが開催され
新宿フォークゲリラの集会が始まる。
この辺、1969年から1971年くらいが第一期フォーク全盛期なんではないかと思う。
この第一期が何故此処まで盛り上がったかと言えば
それは一重にその時代の風潮である。この時代のフォークシンガーの多くが
当時のプロテストソング(とされていた)の代名詞であるボブ・ディラン
影響で歌い始めた場合が多く、世の学園闘争・政治の季節の風潮に
ピタリとマッチし(逆に言えばこの風潮だからそういった歌が歌われた)
多くの支持を得たのは、フォークゲリラの例を出すまでもなく解り切った事である。
この時代の重要人物は高田渡遠藤賢司小室等加川良三上寛西岡恭蔵
挙げていてはキリがないが、
その中でもカリスマと言えるのは間違いなく岡林信康である。
この岡林信康を筆頭に、URCアングラ・レコード・クラブ)レコードを中心とする
アングラ・フォークは、関西を拠点に1970年をピークとした全盛期を迎える。
これが日本のフォーク第一期である。
では、第一期が岡林信康であるとすれば第二期とは誰なのか。
それは吉田拓郎よしだたくろう)その人である。


岡林信康から吉田拓郎
「フォークの神」から「フォークの貴公子」へ
このカリスマの交代がそのまま70年代前半日本のフォークの
流れを示していると言える。


1968年、吉田拓郎が広島フォーク村にて
岡林信康の「私達の望むものは」を見た時
「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」
と言い、「イメージの詩」作成した。
同年、広島大学バリケードで囲まれたステージでこの「イメージの詩」を歌うが
演奏後、白メットの学生たちに激しいアジを浴びせられている。
だが1971年、結果として最後になる中津川フォークジャンボリーにて
吉田拓郎PAトラブルによるマイク無しの状況の中、
サブステージで「人間なんて」を二時間歌い続け
観客の熱狂を呼んでいる。
一方その直後、メインステージが占拠され
占拠した若者から主催者に
「何故岡林が(今この場に)いないのか」(出演はしている)
との質問
「明日の公演があるので、大阪に向かいました」
実際はTBSの独占取材を受けた後
岡林は身の危険を感じて山を降りていたそうだ。
この辺りから少しずつ時代の移り変わりが感じられる。


そして1972年、吉田拓郎はシングル「結婚しようよ / ある雨の日の情景」から
アルバム「元気です。」と立て続けにヒットを飛ばす。
先程第一期が1969年から1971年と書いたのは
アングラ・フォークの一つの象徴である
中津川フォークジャンボリーが1971年に第三回を持って終了し
1972年に吉田拓郎がヒットを飛ばし始めるからである。
日本フォーク第二期はここで幕を開けると思われる。
学園闘争は敗北を迎えつつあった。
時代は「私達」の歌から「私」の歌へと変わっていったのだ。
(ちなみに泉谷しげるはこの「私達」→「私」の移行を
 フォークの「進化」だったと言っている)
また、岡林信康の後、次に来るのは加川良吉田拓郎だ、とし
フォークファンの間に「加川派」と「拓郎派」ができたそうだが
結局時代はアングラフォークの延長にある加川良より
新感覚の吉田拓郎を選んだ事になる。
(ちなみに松山千春はこの時「加川派」だったため
 今でも拓郎が嫌いらしい)


当初吉田拓郎の歌は人気こそあったものの
従来のフォークファンからは
URCの劣化版」「商業主義」「裏切り者」「堕落した」
等と言った非難を浴びていた。
また観客からの多くの黄色い声を聞き
かつてのグループサウンズと似たような末路を
フォークも歩んでしまうのではないかと危惧する者もいたと言う。
そんな中、吉田拓郎は着々と人気を伸ばしていく。


正直、自分は吉田拓郎の「凄さ」というのが今までイマイチよく解らなかった。
なんというか、普通なんである。
確かに良い歌ではあるのだが、特に面白くもない。
だが、よくよく考えてみると、この「普通」を作りあげたのが
吉田拓郎そのものなんではないかと思う。
曲調からライブ形態、そしてツアーの形式まで
今のメジャーな音楽形態のスタンダードを作り上げたのが
実は吉田拓郎なんではないだろうか。
正直言うと此処から九十年代初頭辺りのメジャーな
男性ソロシンガーに限って言えば、遠かれ浅かれ吉田拓郎
影響下に無い人物はいないんじゃあないかと思う。
兎にも角にも吉田拓郎はフォークをメジャー、メイン・カルチャーへと
引っ張り上げた存在なのである。


ここで改めて見てみると
岡林信康吉田拓郎 の構図はそのまま


日本のフォーク
第一期→第二期


アングラ→メジャー


私達→私


カウンターカルチャーメインカルチャー


社会派→生活派


にそのまま当てはまるのである。
また、これが吉田拓郎の功績であり功罪である。
そしてこの頃、吉田拓郎の後に続くように
アンドレ・カンドレから改名した井上陽水が1972年に再デビュー
1973年にはシングル「夢の中へ」アルバム「氷の世界」
とヒットを飛ばす。また同年、かぐや姫の「神田川」がヒットし
叙情派フォーク、四畳半フォークと言った言葉が生まれる。
(ちなみに四畳半フォークとは荒井由美が「暗い音楽」
 という意味でつけた元々は蔑称である ※諸説有)
現在「日本のフォーク」と言った時に
「四畳半でポロポロギター弾いてる暗いヤツ」
というような一般的なイメージを決定付けたのは
おそらくこの辺とこの後現れるさだまさしである。


そしてこの辺から前述した荒井由美(後の松任谷由美
を交えてニューミュージックという言葉が使われ始め
フォークとの垣根は曖昧になって行き、フォークは段々と
謡曲(後のJ-POP)という何でもありのドロドロとした
渦中に飲み込まれて行くのである。
(ちなみに「シンガーソングライター」って言葉が使われ始めた
 のもこの辺り、それまでは「弾き語り」)


日本のフォーク第二期がどこまでか、というのは
はっきりと線引きをする事はできないが
個人的には吉田拓郎小室等井上陽水泉谷しげる
が「フォーライフレコード」を発足し
吉田拓郎かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催した
1975年までではないかと思う。
この頃にはフォークはメジャーになり認められはしつつも
もはや第一期のような勢いやパワーは無くなっていた
もしくは無くなりつつあったのではないだろうか。
思うに「私達は音楽の流れを変えられるでしょうか」を
スローガンとし、ミュージシャンが制作・流通から宣伝までを
管理し、楽曲制作に最適かつ、新人を育成輩出できる環境を
目指し、またそれに音楽業界全体が続いていくよう
発足されたフォーライフレコード
(確かそんな意気込みだったと思う
 何より、見ている側にもその期待があった)
は、フォークの最後の「抵抗」だったように思えてならない。
その結果は「敗退」である。会社自体は今でも続いており
諸々あるだろうが
少なくとも当時の状況、興行的には失敗だろう。
経営もよく解らない、流通にも明るくない「生意気」
なミュージシャンは、戦後から
音楽事務所主体で動いてきた音楽業界に干されたのである。
(そんな中唯一手を差し伸べたのがプレス、販路のキャニオンレコードと
 販売委託のポニー、後のポニーキャニオンであった)
フォークは既にこの「業界」に「歌謡曲・J-POP」に
どっぷりと取り込まれてしまっていたのではないだろうか。


カルトフォークグループの「マリちゃんズ」に
「売れれば良いという訳でも無いがやっぱし売れなくては話になりはしない」
という迷曲があるが、ある意味これは
「売れてしまってからでは遅すぎた」例なのかもしれない。


もちろん各フォークシンガー、ミュージシャン達はそれぞれ
活動を続けていたし、フォークというジャンルも概念も志も
消えたわけではないが、ある種のムーブメント、時代としての
日本のフォークは、ここらで一端終わっているようにも見える。


また、この後現れる一つのグループにアリスというのがいるが
泉谷しげるによれば
「ヤツらは私達から私へと変わっていったフォークを
 再び私達に戻してしまった(もちろん岡林とはまったく異なる形なれど)」
らしい。
歴史は繰り返すと言うが「私達」→「私」の移行が進化か退化か
は良く解らないが、果たして今、現在はどうなんだろうか
個人的には、今は何週かして「私」を歌っているような気がする。
ライブハウスだとか、ネット上のブログだとかを見てて
なんとなくそう思う。


まあこれからどうなるんでしょうね。




ちなみにこの後、2000年代に
ゆず、コブクロ、19、等を中心とした「ネオ・フォーク」なる物が現れるが
音楽界屈指の超フォークオタクであるTHE ALFEE坂崎幸之助によれば
「ネオ・フォークはやはり、違う。まだまだ60〜70年代のフォークの足元にも及ばない。」
だ、そうだ。なんとなく、同感である。


参考資料
日本フォーク年鑑 NHK BS
あれはロックな春だった! 朝日新聞社   他