気が付けば湿っぽい六月を通り越して、七月の暑さがやってきていた。
熱の籠る自室の中で、扇風機が低いモーター音を奏で、
オーディオ・インターフェースがジーっと小さなノイズを立てている。
うっすら目を開けるとウッドベースが傍らで同じ格好をして横たわっていた。
そこで昨日眠るまでの状況を思い出した。
昨日、作りかけの録音でもしようと思い立ち、
秋葉原で一万五千円で買ったNECの旧型ノートパソコンと、
ジャンク屋で買った三万円程のウッドベースを持ち寄り、
これまたジャンク屋で千円足らずだったBOSSのベースイコライザーと
メーカー不明のコンプレッサーという二つのコンパクトエフェクターと、
友人から一万五千円で買ったオーディオ・インターフェースを
シールド・パッチ・シールドで繋いで、ネットで拾ったフリーのDTMソフトを立ち上げた。
これで我が家にある数少ない価値のありそうな機材が大方集結した事になる。
デバイスの認識も問題無く、それぞれのツマミを弄りながら、
ウッドベースをボウンボウンと弾いてやる。
実際にウッドベースが奏でている音と、ピックアップから各機材を通り、
ヘッドホンへと流れ込んで来る音にはかなりの違いがある。
いっそ、鳴っている音をそのまま録音してくれればありがたいのだが
そうは問屋が卸さないし、なにより面白くない。
そうして妥協の末に大体の音を作ると、先に録っておいたエレキギターの音に合わせて
何度かフレーズの確認と簡単なリハーサルをする。
そうして取りあえず録音をしてみようと思う。
失敗してもやり直しが容易なのが宅録DTMの良い所であり、また悪い所である。
パソコンの画面に表示されている赤くて丸いボタンをクリックすると
シークバー上のスライダーが右へと進み録音が始まった。
数小節のイントロを経て、第一音を奏でるべく、ウッドベースの太い弦を
右手の人差し指と中指で軽く力を入れて弾いてやる。
「ボウン」と音が鳴り、録音は中止された。
急に息を潜めたヘッドホンを不思議に思い、パソコンの画面を見ると
スライダーが止まっている。画面を覗き込みながら首を傾げていると
再びスライダーが動き出し、ヘッドホンがやかましく騒ぎ始める。
そこで再びウッドベースを「ボウン」と鳴らせてやると、
再びスライダーはピタリと止まってしまった。
そのうち、「録音されたファイルを保存しますか?」
というメッセージを載せたダイアログボックスがピョコンと立ち上がる。
保存も何もそもそも録音されてないよ、と心の中で文句をいい、
中途半端にケーブルノイズだけが録音されたファイルを迷うこと無く削除する。
新たに録音を始めても同じ現象が起こった。
とりあえずウッドベースを体の反対側へ寝かせ
パソコンの前に胡坐をかいてしばしニラメッコする。
何かのエラーかオーディオデバイスとレイテンシーの兼ね合いか、
はたまたスペック不足か設定の間違いか。
色々とカチカチ弄ってみても結果は変わらなかった。
開き直って止まるスライダーと格闘しながら録音もしてみたが、
結果は聞けた物ではなかった。
そうして頭をガシガシと引っ掻いて、ふて腐ってそのまま眠ってしまったのだ。
ボーっとした頭の中で、そうした昨日までの経緯を思い出しながら
のそのそと起き上った。コンパクトエフェクターの赤いランプが弱々しく輝いている。
突然だが、ここまでの話は一部の人に嘘を付いていた。という事を付け加えておく。
それは、自分をよく知っている人には嘘にはならないかも知れないが、
あまり知らない人には嘘になってしまうかもしれない。という物だ。
おそらく、自分を良く知っている人がこれを読めば
「あー、大して弾けもしないウッドベースとか出しちゃってカッコつけてんなー」
ぐらいに思うかも知れない。それは正しい。
だが、あまり知らない人は
「へー、ウッドベースとか弾けるんだー」
ぐらいに思うかも知れない。それは嘘だ。
もちろん家にウッドベースがある事も、添い寝していたのも本当だけれど
だからと言って弾ける訳じゃない。
「じゃあ何で持ってるの」と言われたら、それは鳴らせるからで、
押さえて弾けばとりあえず音が出る、馬鹿でも鳴らせる楽器だからである。
しかしこの馬鹿でかい嘘の塊のような楽器はそれはそれで結構重要だったりするのだ。
なぜなら何かしようとする時、色々とこねくり回す、最初のアイディアを、
フレーズを、素材を、それはアプリケーションの上だったり、頭の中だったり
指板の上だったり様々だけれど、そのこねくりの大部分は技術の不足だったり
金銭的事情だったり、単純な妥協である。それをなんとかしようとさらに
ごまかしや嘘を塗り固めて形にして行く。
そうすると嘘の塊が出来上がる。自分の作業はほとんどがこの嘘の塊である。
だけれど、それは当初のイメージからすれば紛れもない嘘の塊だが
不思議と初めに考えていた物よりも、より本質に近づいていたり進歩していたり、
自分の奥底をよく表していたりする。
嘘に嘘を重ねていくと、より真実に近い嘘が出来上がるのだ。
少なくとも今までそんな作業してこなかったし、そんな作業しか知らない。
そういう訳で、あのバカでかいウッドベースはその象徴だったりするのである。
冷蔵庫からマミーの紙パックを取り出して一杯飲み、
友達から貰ったマールボロ・ライツで一服していると
目の前をショウジョウバエが横切った。
思いがけず夏が顔を出してしまったので
こっちは何の準備も出来ていない。ベッドの上には布団が出しっぱなしだし
床には扇風機とハロゲンヒーターが肩を並べている。
溜まったゴミ袋にはショウジョウバエがワラワラと群がりつつあった。
煙草が燃え尽きる頃に空腹を思いだして、
買い置きの冷凍食品を食べようと電子レンジを開けた。
ショウジョウバエがワッと顔を出す。
そういえば近頃レンジにもショウジョウバエが集るのだ。
中を見ても食べ残しやカスがある訳でもないのに。
そういえば冬に温めたコーヒーが吹きこぼれた事があったので
それがトレイの下で腐っているのかもしれない。
あわててレンジの扉を閉め、ショウジョウバエの群れを隔離する。
少し考えて、レンジのタイマーを10分程度にセットし、
ピッと「あたためスタート」のボタンを押した。
ヴーンと低い音を立てて、オレンジの明かりを灯しながらレンジは動き始める。
中でチリチリと音を立てながらショウジョウバエが焦げていくのが解る。
季節に追い付けず、夏に先を越されたツケがこんな所までやってきていた。
年を重ねるごとに季節の流れは速くなっていく。
このハエにとっての10分間と、自分にとってのこの先は
一体どっちが速いんだろうかと、なんとなくそんな事を考えて
まるでジェット・コースターが急降下する直前のように
なんだか胸が高鳴っていた。