下らない事ばっかりで過ごす日々である。
が、何が問題かと言われればその下らない事で
やたらと忙しいという事だ。
まあどの位かと言われると
ちょっと前に会った親に
「昔はあんなにいい子だったのに・・
真っ当に育てたはずなんだけど、何処で間違えて
こうなっちゃたんだろうねぇ・・・はぁ・・・」
と溜め息混じりに自分の教育の反省点を
探されるくらいである。
「ええー俺何か特別悪い事した訳じゃないのにー」
というのが率直な感想だが
良くわからないが真面目にこういう事を言われると
とてつもなく両親に申し訳ない気持ちで
いっぱいになる。
まあだからと言って日々の生活を改めるつもりも
毛頭無いわけなんだが。
とにかくそんぐらい下らなくて忙しい、らしい。
が、何が下らなくて何が下らなく無い
もしくは何が遊びで何が真面目なのかと言われると
それもそれで難しい物である。
同じ内容の物事でも
ただただ引き篭もってそれに没頭していれば
はたから見ればただの駄目人間であるが
それが一つの仕事として成立し
それこそ年商何億ともなれば立派と
少なくとも世間は認める訳である。
例えば本を読んで掲示板で難癖つけるのが
趣味のただの嫌味なオタクもいるが
その書く文章がどっかで認められればそれは
一端の批評家・評論家になりうる。
スポーツにおいても似たような所がある。
だが、稼いで(プロ)いるから真面目
そうでない(アマ)から遊びかと言われると
そう単純に言い切れる物でもない。
もちろんその間には様々な知識や取り組む
姿勢、責任等の大きな壁がある事も多いが
共に等しく一生懸命やっているだけな場合もある。
あるいは不真面目極まりなく
バイトで稼いでいる奴もいることだろう。
となるとようは本人の熱意しだいといった事になるが
そうすると
「ひたすら真面目に寝て過ごす日々」
や
「糞真面目にTVを眺めるだけの日々」
という物も成り立つ事になる。
が、そうは問屋が卸さない。
自分は以前
「俺は遊びで酒を飲んでいるんじゃない!
真面目に飲んでるんだ!!」
とさんざん主張した事があるが
結局誰にも認めてもらえなかった記憶がある。
つまりは世間・社会の常識や見識による所が大きい。
かなり曖昧で流動的な物である。
「遊びと真面目は流動的である」
と述べたのは確かヨハン・ホイジンガだった。
あのホモ・ルーデンス(遊戯人・遊ぶ人)を
人間の定義とした人物である。
ここでこれを出すのは少々お門違いな気もするが
さらに彼はこうも言っている。
「遊びは文化よりも古い」
これは遊びが文化より原始的な代物である
という見方もできるが
同時に遊びは文化に先立つという見方もできる。
人は遊ぶからこそ文化を育ててきたのだと。
確かに、生きる事に必要な事だけを
ひたすら真面目にやっていたら
ここまで文化は発達しなかったかもしれない。
つまりは遊びとは人間として根源的な物であり
真に自由な行動でもあるのだろう。
(命令された遊びがあまり面白くない事は
多いだろう。もちろん人によるが)
我々はホモ・ルーデンスだ
皆、おおいに遊ぼうではないか
遊びは何も下らなくなんてないのだ!!
・・・ん?
じゃあ下らない日々を過ごしてる自分は
やっぱり駄目なのか?
うーむ・・・・
拝啓
親父様、お袋様
自分はどうやら、不真面目な事しか
真面目に出来ない人間みたいです。