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ムラカミロキ -MurakamiLoki- nzchao.Exp Official Blog

お隣さんが更生

で、先日(※)何が言いたかったのかと言うと
サンプラーやらなんやらをズラズラと並べて
ステージ上で何やらやっている人達。
十分余計なお世話であるのは承知の上で言うのだが
はたから見たら
「あの人達、何してるの?」
状態になってるんではないかと言う事である
更にはノートパソコンなんかをこさえて
蛍の墓」の節子風に言えば


「兄ちゃん、なしてあの人達ステージの上でネットやっちょるのん?」


である。
何を隠そう自分もそう感じた事があるから言うのであるが。
確かにちょっとそっちの方が好きだったり
ましてはいじった経験のある人間であれば
「あーあんな機材あるんだー」だの
「やっぱあれ良い音だすなー」だの
さらには
「あいつ上手いなー」
なんて感想を漏らすこともできるだろうが
事実、例のライブにいた一般女子大生(と思われる)
の皆様の少なくとも半数は


「ハア?」


なお顔を並べていたのである。
なんかやってるみたいだけど
「ハア?」
である。
確かに、これがギターやドラムなんかであれば
それを弾いたことが無い人間でも
ある程度何をやってるか把握する事は容易い
まず第一によく知られた見慣れた楽器であるし
何より動きと音が大体シンクロしているからである。
(ドラムのステイックにシンバルがヒットした瞬間には
シンバルの音が響くし、ギターのフレーズと両手の動きは
間違いなく同じタイミングである。余程の大ホールの後方だとか
ディレイやエコーのエフェクトを抜きにすれば)
またサンプラーでも勢い良く
「ズバッ」っとボタンを押した瞬間に
「ズギューン」とか音がすれば(解りづらくて申し訳ない)
「あ、あの人今この音出したんだ」
とか理解できる。
こう視覚と聴覚を組み合わせて、今、目の前で
起こっている事象を確認し納得するんである。
しかし、これが終始ノートパソコンと睨めっこ
とかなると
「あの人達演奏してるの?」
となってもしょうがないわけである。


と、ここで一つ思うのが
例に出したような「ノートパソコンと睨めっこ」
しているような人達(所謂ラップトップミュージック)というのは
果たして、「演奏」しているのか、それは「ライブ」なのか
という事である。
結論から言えばしているしライブである。
サンプラーという楽器やDJという概念が
普及している現在では
ギターやヴァイオリン等の「生楽器」
を奏でる事はもちろん
サンプリングやレコード等の
「既成の(他人のまたはすでに作成済みの)」
音を鳴らす事も「演奏」に含まれている。
と、いう事は、所謂「演奏」というのは
単純に「音を出す」行為である事になる。
となると、誰かが道を歩いて靴底を鳴らしている時は
靴底の音を「演奏」する事になるし
あなたがトイレの水を流す時
あなたは便所の水を「演奏」している事になる。
更にはiPodの再生ボタンを押す時には
そのiPodを「演奏」している訳だ。
なるほど、たしかにプレイボタンの
「play」というのは、元は「再生」ではなく
「演奏」という意味だったと考えれば納得である。
つまり時代は知らぬ間に万人演奏者時代を迎えていたのか。


だが、この「演奏」という言葉を「音を出す」
という行為ではなく曲等を「構成する」という
行為から見て見るとまた違ってくる。
サンプリングの醍醐味というのは
既成のまたは無関係な音を抜き出し
まったく別のオリジナルな楽曲に「再構成」
する事にあるのだし
DJの醍醐味というのは曲の繋ぎであって
どの曲とどの曲をどういう順番でどのように繋げて
フロアを盛り上げるかという事だと
(と、思うんですが違うんすか?)
考えれば「演奏」というのは「音を出し」更には
その出した音で何か(目的)を「構成」する事であると言える。
これだとただ音を出しているだけの
上述した靴底や便所の水やiPodはただ「音を出す」
だけであり「演奏」している事にはならない。
また世の中には「自動演奏ピアノ」等というものがあるが
これも演奏者がピアノのスイッチを入れた人物ではなく
あくまで機械であるというのも、
スイッチを入れた人物は「音を出す」という行為は
したかもしれないが、そのピアノが奏でる曲の「構成」
にいたっては機械のプログラムが握っているので
機械が演奏する「自動演奏」である。と説明する事ができる。


なるほど、つまりは「演奏」というのは
「音を出す」または「音を出してその音で何か(目的)を構成する」
行為であるというわけであり
ライブとは人前でそれをやる行為であるという訳だ。
なんだか曖昧な気もするが、これならノートパソコンと
睨めっこしていても演奏しているしライブな訳だ。


と、一見落着しようとすると「待った」と掛けるような
嫌な人間ってのはいる物である。
これに当てはまらない例というのが存在するのである。
まあこの手の例はおそらく探せば腐る程出てきそうなんであるが
有名所を挙げると


ジョン・ケージの「4分33秒」と
池田亮司の2001年恵比寿ガーデンホールでのライブ


である。ジョン・ケージの「4分33秒」というのは
平たく言えば演奏者がステージの上に立って
4分33秒間何もしないで帰る。
という曲である。つまり、「演奏」の大前提であるはずの
「音を出す」という行為がここには存在しない。
この曲が音楽の世界におけるゼロの概念の提示(無音の演奏)
なのか、日常生活における無音の否定(環境音を聞かせる)
なのか自分には解らないが、どうやら後者で解釈される事が
一般的なようだ。
池田亮司の2001年恵比寿ガーデンホールでのライブというのは
これもまあ演奏内容さておいて必要部分だけひらたく言えば
ライブの場に演奏者が現れなかったライブという事である。
パッと見は演奏にもライブにも見えないこれらだが
先程の「(目的の)構成」という面から見れば
多少強引であるが説明はつく。
4分33秒は後者の解釈で見れば、演奏者は何もしていないが
何もしない事で周囲の音(一般的には雑音)を曲として
「構成」し、観客に聞かせているわけであるし
{この、観客に聞かせる音(この場合は周囲の環境音)
を演奏者が奏でているかどうかという問題は
サンプリングした音か生音かを気にするのと同様
野暮な事なのかもしれない}
池田亮司のライブは演奏者こそいない物の
観客に自分の聞かせたい音を聞かせられる場(環境)
を「構成」している事になる。
この二つ、特に池田亮司のライブについては
オーケストラにおいて、音は出さないが
全てを統括し、場を作り上げる指揮者や
映画において、実際にはカメラを回すという
画を焼き付けるという根本的な行為や
中に映る背景美術も作らず、ましてや
画の中にその姿が出てくる訳でも、
照明を実際にあてる訳でも無いのに、クレジットに
デカデカと名前が載る監督の概念に近いのかも知れない。
(その指揮や監督する対象が人間以外でもあるとすれば)


では、演奏者がいなくてもライブが可能であるならば
一般の音源発売とライブの違いとは何なのかと考えると
それは、音源は聞き手がどうゆう環境でその音を聞くのか解らず
聞き手の場(環境)を「構成」する事ができないという事のみである。
つまり音源とライブの違いは聞き手が大衆であるか会衆であるかの
一点のみなのである。


つまる所、現在では「演奏」は「音を出す」行為を
必要としないし
「ライブ」は観客と演奏者の「場の共有」を
必要としないのである。
一見最低限の要素と思われる事柄が必要とされない今
その二つの概念を支えているのは「(目的の)構成」である。
音楽は現在広大な構成主義(誤用)の波に飲み込まれているの


・・・かもしれない。


まあなんていうか、演奏とかライブとかは
結構大変なのかもね。
全世界のプレーヤーの皆さん、頑張って下さいねー


ねー




ねー・・・