むらふぁけ -murafake- (移行調整中)

ムラカミロキ -MurakamiLoki- nzchao.Exp Official Blog

時に社会は不的確

前々からもしかしたら自分は馬鹿なんじゃないか
と思う節はいくらかあったのだが
どうやら本当に頭が悪かったらしい。
今更という感じであるが、忙しさや諸事情から
今まで触れずにいた「普通自動車免許」を
やっとこさ取りに行く事になったのである。
教習も無事終えて、いざ試験場へ



二回連続で落ちました。


うーむ、一回目は確かにタカを括っていた感もあるのだが
二回目はちゃんと勉強して望んだんだけどなあ。
しかしこの試験、落ちると受験で落ちた時
以上の絶望感というかなんというかが襲ってくるのは
何故であろうか。
帰りのバスの中で、外に流れる車達を眺めながら

「ああ、この走っている車の数だけ
 僕より賢い人達がいるのかあ・・・
 自分ってやつはせいぜい中の下ぐらいだと思ってたけど
 下の下だったんだなあ・・うふふふふ」

のようなネガティブオーラ爆発させてしまう勢いである
何より、何回も落ちているともう受けたくなくなってくる。


なぜ俺は、教習所ならいざしらず、
試験場に毎日通わなくてはいけないんだあああぁぁぁぁ・・・


という心境である。
教習所に行ってみて思ったのだが、運転免許というのは
運転の技術や知識に対し与えられる物ではなく
運転という物のルールに適合する人間であるかという点に対し
与えられるものだという事を改めて実感した。
車で路上を走行するというのは、皆が交通法規を
(ある程度)しっかりと守り、お互いに危害がないように
走り抜ける事である。その法規を破れば、やがて何らかの危害が
加え加えられ、そして何より刑罰という物が与えられる。
至極当り前の事であるのだが
何の気なしに道を流れていく車達も、全てはそのルールに
縛られており、縛られているからこそ何の気なしに流れて行くのだ
等と思っていると、この車の流れとは現在の法社会の象徴のようであり
またそのものであると感じられてくる。

そして、その法社会の象徴の中に入る許可を与えられない自分は
本格的に社会不適格者なのではないだろうか


等と無駄極まりないアホな事を考えていてもしょうがない。
馬鹿高い教習代を無駄にするわけにはいかないので
結局は思い足を引きずってまた試験場に「通う」のである。


そして今日が三回目。
結果は最悪。今まで一番出来が悪かった
というか昨日あまり寝れなかったせいもあってか
かなり適当に問題を解いて、見直すのも面倒臭いので
そのまま退室した。
(ちなみに手応えで言えば二回目が一番良かった)
また来年、ならぬまた明日か・・・
もうそろそろ落ちるのにも慣れてきたかな
情けない話だ・・・
等と思っていた



事実は、小説もといマンガのごとく奇なり
とは言ったもので


何故かめでたく合格していたのである。
うーむ、どういうことだ。三度目の正直と言うやつか。
なんというか、やはり時には考えない事も重要なのかもしれない。

よくわからん。